聖諦論(解脱の理)

Ⅰ 聖諦論の概略

更新日: 2018年7月12日 12時00分

〔 聖諦論概略 〕
聖諦論とは一言で言えば『苦滅の理』である。

1)わたし達には自分を守るシステム(『エゴS』)がある。『苦』はエゴSの生み出す情動であり、
  危機回避を促す警報である。つまり『苦』は自分が生みだす。何一つ人の責めに帰すものはない。
2)自分で生み出す『苦』だからこそ自分で消すことができる。『苦』を消すことで本当の自分が
  見えてくる。それが『解脱』であり、『解脱』のみが人類に、真の幸福と平和をもたらす。
3)『解脱』の過程で縁起により、極々まれに起きる現象が『悟り』である。

これが聖諦論の概略で、巷間の仏教と相違を感じるかもしれないが、聖諦論こそが本来の釈迦哲学である。

釈迦は徹底的に『人間』を語っている。人間抜きの思想は何一つ語っていない。その釈迦哲学が現代まで語り継がれてきた理由は、釈迦の体験した『悟り』にある。『悟り』が魅惑的なのは究極の幸福だからだ。

 古来、多くの人が『悟り』を夢見てきたが、果たしてどれほどの人が夢をかなえたのだろう?
情報が瞬時に世界を駆け巡るネット社会に、「我悟れり!」という歓喜の雄叫びが世界中から巻き起こりそうなものだが・・・その気配はない。

 『悟り』の説明は難しい、それ以上に体現は難しい。『悟り』には現世の枠を超えた宿命の影響を強く感じる。一方『解脱』は正しい人間理解と瞑想の実践により誰でも実現が可能になる。
しかしその『解脱』さえも、その実現は本人以外には判らないのだから難しい。

 とはいえ『悟り』は奇跡のような歓喜であり、それを発見した釈迦哲学はそれ故に尊い。多くの人が『悟り』を目指すことは、人類にとって大きな意味があると確信している。
 だが、その素晴らしい『悟り』にも知られていない秘密がある。それは『悟り』もまた諸行無常を免れないというものだ。
では我らは何を目指せばいいのだろう?それがここに示す『聖諦論の解脱』である。
『悟り』と聖諦論の『解脱』が人類の進化を意味し、唯一『万人の幸福』を実現する道だとわたしは信じている。

ここで私の知る情報の全て伝えたい。特に若い人達に伝えたい。
少しずつ投稿してゆくつもりだが、同時に修正も入る点はご了承を願う。

 


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