幸福論

Ⅰ-4 日本人の道徳

更新日: 2018年6月25日 15時00分

〔 日本人の道徳は特別? 〕

 海外から「日本人はとても民度が高い」と褒められるが、その言葉の裏には「信仰を持たない(に等しい)日本人が道徳的である」ことへの驚きがある。彼等の道徳は宗教に裏付けされたもの以外ない。他方日本人には子供のころから宗教漬けになっている彼らの感覚が理解できない。
 彼らには天地を創造した万能の神が全てで、『神の意』が道徳だ。生まれた時から家庭で信仰という道徳教育を受けている彼らには、無神論者の如き日本人の意外に高い道徳心が不思議なのだ。

 仕方がない。彼らは日本にも神が御(お)座(わ)すことを認識してない。それもつい70年程前まで『人』としてこの国を統(す)べ賜(たも)うた神が御座すことを、その神を戴いてきた日本人の道徳心は、2000年を超える伝統として隅々までいきわたっていることを彼らは知らない。
 その伝統によって戦後も日本人の道徳心は維持されてきた。ところが、ゆがんだ戦後教育が70年も続くと、さすがに日本人の中にもそれを理解できない者が増えた。さらに日本に居座る不逞反日外国人による日本毀損・誹謗中傷に晒され、日本社会は「風紀の乱れここに極まり、とうとう『学校教育』に頼らざるを得なくなった」というのが道徳教育復活の裏事情だろう。

 『オカマ』の話ではないが「風紀の乱れ」には戦争が大きく影響しているのは間違いない。大東亜戦争は大量殺戮兵器・原子爆弾の『実用実験』を終えてやっと幕を閉じた。戦後、日本人虐殺の罪に怯えた戦勝国連合(国連)は、徹底した歴史捏造を演出し日本人にのみ罪を負わせることに成功した。苦悩する多くの日本人が、「従来の日本人ではないところの新しい日本人たらん」として、日本的なものを悉く否定する『日本蔑視』と、偽りの自由と平等を標榜する『左翼思想』に溺れた。その結果、経済は驚異的復興を成し遂げたが、その裏で『自分自身を蔑む・新しい日本人』が社会の要職に就き日本の伝統を蝕んできた。
だが希望もある。戦後70年という時間は、同時にそれらの過ちをも明らかにしつつあるからだ。

〔 独自の宗教が日本の道徳を生む 〕

 本筋の道徳の話に戻そう。宗教は共通の道徳とはなりえない。共産主義も覇権主義も思想・信条でありある種の宗教だが、現代社会は思想・信条の自由を謳う。だが、宗教が他者の信教の自由を否定することは明らかだ。強烈な一神教の元では神の言葉が全てである。異教徒の他国との協調や平和の維持など到底かなわぬ夢物語だ。
 穏やかといわれる多神教でさえ相手が一神教であれば共存は不可能だろう。自分たちが許しても青手が許してくれない。多神教の国家神道を戴く日本は仏教を受け入れた。だがそれは仏教がそもそも宗教というより哲学に近かったからだ。その証拠に日本にキリスト教は広まらなかった。

 では哲学は共通の道徳になり得るのだろうか?古代中国の聖人たちの教えが、現代の中華・朝鮮半島の道徳となりえているのか?否である。カビの生えた古代の遺物でしかない。ギリシャに端を発する西洋哲学が、現代の人類を導く道を示せているのか?教養となりえてもいまだに発展途上の学問で、道徳としても未だ完成に至っていない。

 宗教も哲学も道徳となりえなかった。だが日本では多少事情が違う。日本には独自の宗教がある。それが特異な道徳を形作ってきた。国生みの多神教『神道』と限りなく哲学に近い外来宗教『仏教』がこの国で一体化している。それは、中華の地から漢字を取り込んで、カナ・漢字併用の現在にまで残る日本語を創りあげた様子と似ている。

 日本人は奇跡のように何の異も唱えず、『古代神』とも言うべき現人神(あらひとがみ)と、先進・釈迦哲学を現代にまで戴いてきたのである。

 宗教とは人間以外の何者(物)かに『絶対的価値』を置くものだと考える。それを認めるなら、仏教は人間が悟りを開いて最高の存在・仏に成るものであり、神道はまさに人間・現人神(あらひとがみ)を戴くものであり、どちらも宗教として異端である。
 信仰の対象と信仰の実践者が同じもの(共に人間)を宗教とはいわないだろう。こんな宗教とも哲学ともつかないものを何と呼べばいいのだろう?道徳と呼ぶしかないのではないか?

 日本は現人神(あらひとがみ)を現代まで擁している。その現人神が一方では仏教に帰依する。その存在が常に教条的になりがちな宗教(神道)を柔軟に保ち、その一方で、人間に最も重きを置く釈迦哲学を現代に伝える。その結果、神道と仏教は宗教の枠を超え、風土や文化のように『日本の景観』の一部となっている。これが日本の道徳なのだ。

 殺すな・盗むな・嘘をつくな。勤勉に働き・仲間で助け合い・人に情けを掛けよ。貪欲・怒り・愚痴・慢心を捨てよ。お天道様・慈雨・地の恵・海の幸山の幸、天地万物に感謝せよ。自然の美しさにふれ・先人に学び・人生を豊かにせよ、等々『日本の景観』の一部となった道徳は、日本人の心や日々の生活の中に溶け込んでいる。

 海外が日本の民度に注目する理由がここにある。道徳は、その国や民族の文化や歴史に沿って生まれる。他国の顔色を窺いながら教えるものでも学ぶものでもない。

 だが宗教・哲学ともに指標たり得ない今、世界は日本の道徳に学ぼうとしている。簡単にはいかないだろうが、世界はその道を模索しているように見える。

 しかし肝心の日本で、日本的でない穢れ(けがれ)が『日本の景観』を覆い隠そうとしている。この穢れを払うには、道徳を担う教師を筆頭に、今一度我々日本人自身が、日本の歴史と文化を振り返り、必要ならば学びなおさなければならない。我が日本のみならず世界中の人々のために。

 

〔 日本の道徳の特徴 〕

 生きていく上で、わたし達に肯定的感覚(快感)をもたらすものは食欲と性欲だけである。これらは『個体と種族の恒常性維持』という、生命体の最優先課題を担うシステムだからだ。飢えて命を失い、交配せず子孫を残さなければ『種』が絶滅してしまう。そして、肉体と精神からなる人間の行動原理は、この二つをエネルギーととして「苦から逃れる」という形をとる。(これに人類の進化を加えた行動原理が聖体論の基礎である。)

一神教のような強い宗教的制約を持たない日本人は、この二つの快感に禁忌はない。溺れるというか、のめり込みやすいのだが、そののめり込み方が日本人は独特であった。

 日本人の料理への拘りは外国人には驚きらしい。これほどTVでグルメ番組が流れるのは日本だけだろう。日本の料理人たちはいつの時代でも、外来の料理を自家薬籠中のものにして、日本風に進化させる。いまやその『日本の食文化』に世界中の人々が興味津々であり、『日本食』が外人観光客を呼び寄せている。

 もう一つの性に関しても、現在は少し歪んでいるが元来開放的で、落語や文学のテーマにもなり、女性蔑視や虐待などと無縁な独特の文化を持っていた。その典型が吉原で、遊女が教養高い『花魁』として奉られる一種の『スターシステム』。吉原では女性が主役で、逆に男は裏方である。さらに古く、女性の書いた文学として世界最古の『源氏物語』(紫式部)などは、西洋上流社会の人々が、「日本では自分たちよりはるか昔から宮廷文学が存在していたのか」と驚愕した、実に絢爛たる恋愛・性小説である。性文化の裏に往々にして女性の人権の問題があるのは承知しているが、その点においても日本は世界のどの国からも非難されるようなレベルにない。

 戦後、日本は女性の人権問題に関し全くいわれなき攻撃を受けているが、攻撃しているどの国より日本では女性が尊重されてきたのは間違いない。性奴隷などと批判する『慰安婦』は日本のものではない。かつてそのような社会であった国のおぞましい自己投影による日本蔑視である。

 自由でありながら日本人のそれは、抑制的で道徳的に頽廃していない。その理由はやはり神道と仏教にある。性に関して言えば天皇を中心とする封建制度が『家』を核として近代まで安定した社会を維持してきたことが理由だろう。天皇制そのものが『万世一系の天皇家』という『家』なのだから当然である。

 食に関しては「暴飲暴食を重ねるほどの食糧事情になかった」というのもあっただろうが、なぜかしら日本では支配者階級であるはずの貴族・武家に有り余る富が集中することがあまりなかった。その代わり武士道という独特の精神文化を作り上げた。また神道を宗教としながら哲学的仏教に、特に内省的『禅』に親しんだ。だから庶民・特に商人に富裕者が現れた時でも、支配者階級の影響で奢侈(しゃし)に走るより粋・瀟洒に生きることを選んだようである。

 

 独特の精神文化で、人間の最大の欲求・欲望に対して自制的であり続けた日本人は、他者もまた自制的であることを疑わず、その罪についても寛容であることが出来た。『禊(みそぎ)』や『水に流す』といった社会通念はどうやら日本人に特徴的な文化らしい。

 覚醒した人間である仏陀・『釈迦』と現人神・『天皇』を戴く日本社会に身分・階級はあっても、『釈迦』と『天皇』の前では本質的に平等という意識が常に働いていたのだろう。例外はあっても、昔から日本人は日本人であったということらしい。

 

 信者ではないのでわたしは一神教の世界を体験的には知らない。その一神教の下で神の教えに逆らった人間はどうなるのだろう。悔い改めれば許されるのだろうか。もし許されぬ罪を犯したなら当人は自暴自棄になって罪を重ねるのではないだろうか?おぞましい性癖を持った聖職者や身動きとれぬほど太った大食漢などその例ではないだろうか?一神教の厳しい戒律ゆえの地獄図ではないのか?

 

 しかしかくいう日本も他人ごとではない。かつて素晴らしい未来を夢見た21世紀だが随分とおかしくなりつつある。行き過ぎた社会保障が地域社会や『家族』制度を崩壊させ、それに伴い日本人の考え方や行動が乱れている。
 ネットの普及に比例して、匿名性の下で人に知られたくないであろう恥ずかしい映像や情報が溢れている。テレビには様々な趣向を凝らしたグルメ番組が氾濫し、大食いが芸になる変な世の中になってきた。

 日本の道徳が崩れ始めている。これを防ぐには人間つまり自分自身を知らなければならない。本当の自分を知る、それが聖体論の目的である。


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