幸福論

Ⅰ-2 幸福とは何か?

更新日: 2018年6月25日 15時13分

〔 誰もが幸せになりたいと思っている 〕

 「幸せになりたい」、わたし達は口にはしなくてもそう思っている。生まれ落ちてすぐの赤ん坊でさえ、不安や不満をかかえ泣き声を上げていても、母親に抱かれると安心してその胸に憩う、膝の上で安らかに眠る。たとえ神の子であろうと、その至福は生涯忘れることはないだろう。

 ところが、無垢な子供時代をへて、自我の芽生える少年期、希望に燃える青年期を過ぎると、幸せを求めて開かれていた瞳は徐々に輝きを失い、力なく足元を見つめ、日々の糧を得るために疲れ果て、いつか望みもなくとぼとぼ歩き、気がつけば皺(しわ)に埋もれた見知らぬ顔を鏡の中に見る。そうして時が来れば後悔と悲しみをまといながら力尽き倒れる。嗚呼、誰しも感謝の微笑みをもって最後の時を迎えたいに違いない。だが、果たして望み通りの人生を終えられる人がどれほどいるのだろう?

 

〔 巷にあふれる幸福 〕

 巷(ちまた)の書店にもネット上にも「あなたを幸せにしてあげよう」という有り難い『自己啓発本』・俗に言えば『幸せ本』があふれている。それも「一瞬で」とか「努力なしで」とか、少し控えめなものは「一日5分で」、上から目線になると「あなたにもできる」と口々に、まるで路上の『たたき売り』、いや今ではテレビの『通販ショッピング』か。
 いずれにしろ香具師(やし)まがいの魅惑的だが胡散くさい口上が本の帯を飾り、千円札2枚も出せば「お釣りがもらえてその上に幸せまでついてくる」とばかりに微笑みかけてくる。そのあらがいがたい魅力に惹かれ性懲りもなく買ってしまった、両手両足の指を全て借りても足らぬ数の『幸せ本』が、本棚や枕元に、ともすればどこかの古本屋で埃をかぶっている。
 古書店が墓場になるという、書き手・売り手・買い手の三方みな気の毒なことになるのは、「幸せはお湯をかけて3分という風にはいかないのだ」と気づくころには、金も寿命も尽きているという『人の性(さが)』のせいだろう。

 金は尽きても寿命は尽きず仕方なく恨み言を尽くすのだが、幸せになれないのは我々が自分のことを知らないからだ。自分のことを知らない人間は、どれほど能書きを垂れようが所詮は『毛のない猿』の域を出ない。『幸せ本』の売れ行きが絶好調なのは、そのうち良くなるさと他人任せにしていた世の中が、変わらないどころかますます住みにくくなって、悩める善良な『毛のない猿』が増えてきたからだろう。
『毛のない猿』を脱却するには自分自身のことを知るしかない。知らない限り人は幸福にはなれない。

 

〔 幸福とは欲望の充足か? 〕 

 『幸福』とは何か? かなり以前・昭和50年頃だろうか、ある新興宗教のTOPが「幸福とは欲望の充足である」という主張を機関誌に書いていた。「仏教系なのに随分思い切ったことを」と妙に感心した記憶がある。「執着を捨てよ」という仏教にあって、執着そのものである『欲望』を全面的に肯定するその勇気には感心したが、一方でその巨大宗教組織に、「それでいいのか?」と批判的な思いを抱いたのも事実である。

 『欲』とは何か?簡単に言ってしまえば『欲求』と『欲望』。生命と種を維持するために肉体が求めるもののが『欲求』で、同じように命を守ることにつながるのだが、自分以外の他者よりも社会的立場を優位に保つために精神(心)が求めるものが『欲望』である。
本当はもう一つ、肉体でも心でもない部分(魂)の求めるもの――とりあえず『意志』とでもよぼうか?
真(知性)・美(感性)・善(悟性)等への憧れ・希求というものがあるのだが、これを欲とは呼ばない。

 肉体的と精神的とに関わらず、この欲の充足を否定するものではないが、それがもたらすものは『満足や安心』であって幸福ではない。他人の心中を知る由もなく、断定はできないが自分に当てはめれば、『満足や安心』は長続きせず、その上それを失うことが『苦』になり却(かえ)って『幸福』から遠ざかる。この傾向は概ね共通しているようだから、「幸福は欲(望)の充足である」という断定は間違いだろう。

 現代社会で、多くの人が苦しみ・絶望し・自棄になり・他の人を攻撃せずにはおれないのは、「欲望の充足」を幸福と勘違いしているからである。

 

〔 真の幸福とは ? 〕  

 では真の幸福とは何か?『悟り』経験がある者として言わせてもらえば、『悟り』こそ人間にとって究極の幸福である。といっても『悟り』という文字を口にしただけの御託宣に何の意味もない。元来『悟り』は「不立文字」と言われ、文字や言葉で説明することは不可能とされる。
 あからさまに言えば「悟ればわかる、悟らなければわからない」というものだ。人を人とも思わぬ尊大な言葉に聞こえるかもしれないがそうではない。
 悟った時の状態を口にすることはできる。「あ、わかった!な~んだ、そうだったのか」というもので、心の底からそう思っている自分がいる。ところが、「わかった」はずなのに「何がわかったのか、何が変わったのか」それがわからない。当人にもその部分は言葉に出来ないから「不立文字」なのだ。

 仏教開闢以来、あまたの秀才たちが言葉にできない『悟り』に取り組んだが、果たしてどのくらいの人が『悟り』を開いたのかしたのか皆目見当もつかない。
 文献などによればそこそこ居るはずだが、本当に悟った人は意外と少ないかもしれない。なぜなら、仏教諸派の中には「悟りを開いたのは釈迦ただ一人」と主張する宗派まであるのだ。それで宗派が成り立つのであれば、実態としては「悟ったのは釈迦一人」と主張しても違和感がないほどに『悟り』は稀有な出来事ということになる。

 しかしいくら何でも「全ての人が仏性を有す」と説いて仏に成る道を説く仏教にあって、「悟ったのは釈迦一人で」は『羊頭狗肉』も甚だしい。御釈迦様も嘆く暴言ではないか?

 とりあえず、わたしは『悟り』が究極の幸福であることは知っている。では、「幸福とは悟りである」と決め目標にしていいのだろうか?
 それには大きな問題がある。理由は判るだろう。言葉にできず、手に入れた人が『稀有』で、それどころか釈迦しか悟っていないかもしれないという『悟り』、そんなものを『幸福』として目標にすれば、ほとんどの人が『幸福を求めて得られない失意の人生』を送ることになってしまうからだ。

 

〔 求めるべきは悟りか? 〕  

 「幸福とは悟りである」これはわたしの意見である。みな自分の幸福を求めてもいい。それは自由だ。
 では『悟り』以外どんな幸福があるのだろう?先ほど少し触れたが『魂』の意志に従うことを幸福の一部と呼んでもいい。学問に生き・芸術に生き・社会奉仕に生きる。自ら決めた『幸福』を生きがいにすればいい。さらに、多少刹那的ではあるが、仕事や趣味など現実に満足・安心・喜びをもたらすものを幸せと呼ぶことも可能だろう。つまり、『欲求・欲望』を満たすことを目標とし、『生きがい・個人的な幸福』と呼んでもよいだろう。

 だがその試みは期待外れに終わるだろう。手に入れたかに見える喜びや個人的幸福の陰に必ず『苦』が潜んでいる。『苦』がある限り、『苦』の海に漂う泡沫(うたかた)のように、現れては消える無常なものを幸福とは呼べないのだ。

 わたし達が、生きがいの達成や欲求・欲望の充足を『純粋な喜び』とするには、どうしても欠かせない一つの条件がある。それが「苦を手放すこと」だ。『苦』を手放さなければ真の喜びは得られない。
 だが、一旦『苦』を手放せば全てが喜びに変わる。どんな些細なことでも、見るもの聞くものすべて輝きを放つ喜びに変えることができる。だから釈迦は「幸せになりたければ、執着を捨て苦を滅せよ」と言ったのだ。

 この苦滅が『解脱』である。

 現代仏教では『解脱』と『悟り』を同じ意味に用いるが別物である。『解脱』は苦滅の理を学び実践を重ね、苦を滅しすべてを歓喜に変える。『悟り』は『解脱』の過程で突然起きる縁起の妙である。天地に満ちる歓喜の雷に撃たれ、生涯忘れえぬ強烈な達成感を味わう。だが悲しいかなそれさえも無常を免れない。

 

〔 わたし達の求めるべき幸福は解脱である 〕

 『解脱』は『悟り』へ至る道だが、この生涯で『悟り』に至るかどうか、これだけは自由にならない。そして『悟り』には鎮静がある。一方『解脱』は幸福であり鎮静は無い。『解脱』の道は生涯続く、それは菩提心を持つものには喜びであり祝福である。そのうえ『解脱』は『悟り』への道でもある。ならば我々が目指すべき『幸福』は『解脱』であると言っても異議はあるまい。

 私の個人的な経験でもそれは正しい。重ねて言うが、『苦』にある限りわたし達は、どれほど満足し歓喜を得たとしても幸せになれない。『苦』は欲望の渦である。そこで得る一時の満足は、欲望の渦の中で懸命にあがき、時おり水面に顔を出し息をつくようなものだ。
 幸せになるには欲望の渦から逃れ、『苦』を手放さなければならない。それが『解脱』である。『解脱』を求める人の中から極々稀に『悟る』人が現れる。釈迦はその『解脱の理』と『悟り』を体現した『仏(ほとけ)』である。

 悟りを開けるかどうかは、外部の因である『縁』と私たちの身内の『因』である菩提心の出会いにある。どちらも変化しつつ運動している『因』と『縁」がちょうどよい形状でこの広大な宇宙で偶然邂逅し一体になるようなものだ。わたし達が目指す『悟り』は自由にならない。

 幸いなことに『解脱』は学ぶことが出来る。『解脱』も『悟り』も『真の幸福』ではあるが、現実的な幸福には「苦を手放す解脱がふさわしい」と言う結論になる。これが聖諦論である。


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