No.3 釈迦は死後や転生を語らない。
更新日: 2018年6月20日 15時43分≪ 釈迦は死後や転生を語らない。今生きている人間を語る。 ≫
釈迦族の王子であったシッダールタ(釈尊)は、東西南北の城門で生・老・病・死に出会い深く悩み出家した。出家の動機は死への恐怖と云って良いだろう。だから釈迦が死後の世界や転生を説かなかったことは、『悟り』を開いた時点で死の恐怖と無縁であったことを示している。
「釈迦は徹底的に今生きている人間についてのみ語っている」これがわたしの感想である。
現代科学の最先端・量子論では「人間の意思が物理法則に影響を与えている」と考えることが常識になりつつある。それが真理ならこの世界は人間の意思(あるいは存在)が不可欠の要素で、人間のいない世界は存在しないということになる。
だから「人間が存在しない純粋に客観的な世界は存在するのか?」という問いの答えは「否」であり、釈迦はありもしない世界を語ることを良しとしなかった。はるか2500年前、釈迦はこの世界が量子論が示す主客不可分の世界であることを理解したのだと思う。
だが方便というものがある。『死と転生』を語る事が間違いとは思わない。福島大元教授・飯田史彦氏の『生きがいの創造』という本がある。ご存知の方も多いだろう、この本に救われたという多くのファンがいる隠れた大ベストセラーである。
飯田氏には特殊な能力があり、自分から望むわけではないが、この世に思いを残して亡くなった方の依頼を受け、「残された遺族に亡くなった方の思いを伝える」というボランティアをしている。そこで語られる体験談は興味深く多くの人を勇気づけてきた。また海外の事例を研究し、前世の記憶をもつ人のエピソードを数多く紹介し悩める人を勇気づけている。そして死後生や転生の事例をもって「人間はトランスパーソナルな(個を超越した)存在である」と主張し、多くの人の共感を呼んでいるのだ。この本が人生を豊かにしてくれる以上無意味であるはずもない。
このトランスパーソナルな人間観もいずれ釈迦の世界観との接点が明らかになるだろうと思っている。『死後の世界』や『転生』は特殊な例と考えるが、それを信じても聖諦論的には何の問題もない。
もう一言付け加えれば、聖諦論では『苦』は現実化しない。現実になった時点で『苦』は消えてしまうものなのだ。それを理解すれば「死もまた現実化しない」というだけのことである。