幸福論

Ⅰ-3 道徳論

更新日: 2018年6月25日 15時10分

 道徳は様々な人々が共存する中で、「協力して幸福を手にする為の規範」を最大公約数的にまとめられたものだから幸福論といっても少しもおかしくない。

〔 道徳教育 〕

 知らぬ間に小・中学校の道徳は『教科』でも無くなっていて、長い間『教科外』という扱いを受けていたらしい。それが平成27年度から復活し、準備期間を経て平成30年度から『(特別な)教科』に格上げになっていると聞いた。

 私は戦後12年ほどして小学校に入った。道徳教育らしきものはあったが印象は希薄だ。敗戦日本に押し付けられた道徳教育は、それまで日本の一般家庭で父母・祖父母が語ってきたものとはあまりに異質で子供心にも抵抗があったのだろう。神話や天皇陛下の話は家庭でも小声でつぶやかれる言い訳のように聞こえた。

 「戦争に負けた国はオカマが増える」。まことしやかな噂話を聞いたのは中学生の頃だったと思う。「戦(いくさ)に敗れた男たちは、自分の存在価値を見失い自信を喪失し、男を捨ててオカマになるのだ」と聞いて、戦争体験もないくせに戦闘に敗れ「男がオカマになる」戦争というものを恐怖した。

 

 小学校で教わった道徳の授業は、戦前の道徳から神道・天皇・軍部といった皇国史観を徹底的に排除したもので、教える方も手探りだったのだろう。「庭の木を切ったことを正直に告白した少年を、父は責めずに少年の正直さを褒めた。その少年が後にアメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンである」。数少ない記憶に残っている道徳の授業内容は、占領軍の政策に違いないが、今思えば若々しいアメリカの美点だったのだろう、屈託のない底抜けの無邪気さしか感じない。

 

 今は怪しくなったが、日本には地域や家庭に道徳を教える力が残っていた。母や父が折につけ教えてくれた諺(ことわざ)が心に残っている。「朱に交われば赤くなる」(友達を選びなさい)、「情けは人の為ならず」(善行は他人の為ではない自分の為だ)。その他にも「人の振り見て我が振り直せ」、「仕事に追われるな、仕事を追え」、「上見て暮らすな下見て暮らせ」、「稼ぎに追いつく貧乏し」・・・。暮らし向きのことが多かったのは、物資がなく豊かな生活を求めていた戦後間もない時代の反映だろう。

 幸いと言えばいいのか、田舎住まいの私が、敗戦で増えるはずの『オカマ』に出会うことは免れたが、その言葉さえも『差別用語』と糾弾される、異常に『道徳的』すぎる現代日本の『不道徳社会』はやはり敗戦がもたらしたものだろうか。

 

〔 道徳の限界 〕

 前置きが長くなった。道徳とは何かだ。人間が興味を持つものはすべからく自分の幸福に関わるものだ。中でも幸福に直接的に関わるのは道徳・倫理・哲学・宗教などだろう。
宗教は統一されない限り学校では教えられない。哲学は学問的色彩は濃いが実態は個人的感覚に立脚する。人は自分の感覚しか理解できないそれ故に難解である。
そこで小・中学生に教える“いわゆる『人の道』”というものが生まれたのだろう。それが道徳(倫理)であり、“いわゆる”などと言う枕詞をつけるのは、「誰もが受け入れ可能な最大公約数的なもの」でなければならず『曖昧さ』を免れないからだ。

 小・中学校で教えるとなれば「判りやすい」ことが一番だが、単純なものほど教えやすい反面その説明は難しい。相手が受け入れるかどうかという問題はあるにしても宗教は教えやすい。思考から離れているので「神様が〇〇とおっしゃった」これでこと足りる。だが相手が子供でも、首をひねりながら「なぜ」と聞かれたらその原理の説明は難しい。
哲学は元々「私はこう理解した」という個人的な思考を根本原理とするので、相手の同調を得なければならないので教えにくい。だが一旦同調すればあとは論理的(思考)なので説明はしやすい。

それにもまして敗戦日本は西洋の多数決民主主義を受け入れなければならなかった。明治維新以来積極的の西洋文明を取り入れてきた日本であるが、自ら進んで受け入れた者でも敗戦項の立場で押し付けられるのは随分勝手が違ったろう。日本の道徳が急速にすたれたのはそういうところにあるのかもしれない。その日本が今なお世界で道徳的に範とされる国の筆頭と言われるのは喜んでいいのか悲しんでいいのか分らない。

 道徳(倫理)は、宗教や哲学を含め社会通念となっているもの、つまり民主主義的・最大公約数的な項目を纏めたもので、教えやすく説明しやすくなければならない。
親や教師が教えることを前提にするなら「〇〇しなさい」で通る。子供たちが「なぜ?」という言葉を覚える前に教えればいいのだ。
 そう考えるなら道徳は学校より家庭で教える方が本筋ということになる。ところがその道徳教育を戦後70年以上もたって復活させるのは、日本社会・家庭が道徳力を失い、親の学びが劣化したのだろう。だから道徳教育は子供ではなくその親にしなければならない時代になったというのが事実なのだろう。

  〇父母を敬い、兄弟仲良く、友人と親しめ。〇弱者に暴力をふるうな。弱者を守れ。
  〇困っている人の力になれ。〇人の物を盗むな。〇無益な殺生をしない。〇嘘をついてはならない。
  〇よく学びよく働け。〇法を守り約束を守れ。〇無駄遣いをするな、物を大事にしろ。

 これらの内容を、寓話や偉人伝やことわざを使って教える。その上でこれらの道徳を守らなかった人の悲惨な末路を聞かせて脅せばいい。そのような道徳教育でもないよりはましだ。だがこの道徳は最初に述べたように曖昧さを免れない。

 社会通念上の最大公約数的規範という、原理・原則を持たない道徳は、例えば『死刑制度の廃止』一つとっても結論を出せない。
「人を殺す権利はない」と死刑制度に反対しても現実に人を殺す人間は一向にいなくならない。殺された側の人権をどうやって救うのか誰にもこたえられない。
「弱者を守れ」というリベラリスト達は、「本人が被害者といえば被害者だ」とエスカレートし、反対する者が弱者であっても平気で異教徒の如く攻撃する。
 原理・原則のない道徳は、簡単に憎悪や怨念を抱く政治活動や他民族排斥活動家たちの武器となり、不届き者が相手にだけ道徳を要求し、善良な者がひるむそのわずかの隙に、自分たちの正義を装った悪意を打ち立ててしまうという結果を招く。

 道徳は必要であり有用でもあるが、真の力にはなりえない。幸福を目指すには原理原則に欠けている。
聖諦論という原理原則が必要なのだ。


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