聖諦論(解脱の理)

Ⅱ 釈迦哲学1(概略)

更新日: 2018年7月11日 11時55分

 本編は『釈迦哲学の概略』としているが、釈迦哲学の聖諦論的解釈というものである。

〔 仏教は哲学である 〕

 聖諦論の基礎は仏教である。仏教抜きには語れない。その仏教は一般的には宗教と思われている。宗教とは何か?わたしの宗教観は、「宗教とは人間以外の対象に絶対的価値を認めそれによる救いを願う行為」である。その対象には神・思想・自然現象・山や巨木・巨岩・大いなる存在(?)など人間は様々なものに絶対的価値を観る。

 仏教ではどうか。仏教で崇められ・絶対視されるのは『仏』・正覚の人間である。崇め・絶対視するのは目覚めていない人間である。崇めるものと崇められるものがどちらも同じものを宗教とは呼べない、哲学・道徳・倫理である。仏教は宗教ではなく釈迦哲学である。

 共産主義なども『思想』を絶対視する一種の宗教だと思う。だから仏教の中にも宗教と呼ぶべき宗派は存在する。「ただひたすら念仏を唱えれば極楽浄土にいける」とする浄土宗などは『宗教』だろう。しかし釈迦本来の教えは哲学であると信じている。
 また理解できないものを『信じる』こと自体を宗教と考える人がいるので、釈迦哲学の『悟り』を超自然現象として絶対視する人には仏教は宗教になる。ただしその場合、『悟った人』をどう扱うかという問題が生じる。生身の人間を絶対者として崇め奉ることになり、必然的に『神殺し』の可能性をその宗教は抱えることになる。それは宗教として成立しないだろうと思う。

 仏教は哲学である。釈迦は人間の正気・『悟り』に覚醒した無上の人・仏という奇跡のような存在であるが奇跡ではない。わたし達は菩提心を持って正覚・悟りを目指す。ここに『人間本然の覚醒』以外、超常・超自然への憧れは微塵もない。釈迦の教えは宗教ではなく哲学である、その立場で解脱・悟りを目指すのが聖諦論である。

 

〔 釈迦哲学の目的 〕 苦滅・解脱・成仏(幸福の代名詞である)

 釈迦哲学の目的は何か?いたって簡単である。宗教であれ哲学であれ人間の営みはみな同じで「幸福になる」ことである。そして釈迦哲学は幸福になるためにどうすればいいか教えてくれる。それが『苦』から逃れることである。釈迦は「人生は苦である」と喝破し、『苦』から逃れるすべを教えている。

 釈迦は「わたし達は苦の輪廻に捕らわれている」という。この輪廻には、生死を超えた『転生の輪廻(輪廻転生)』と一つの生涯における『六道輪廻』がある。現実的にわたし達が取り組めるのは『六道輪廻』である。
 わたし達は『六道輪廻』の苦に生きる。それに気づく事が『菩提心』であり仏に成るための修行の出発点である。仏になる修行が『苦滅』であり、『苦』を滅すれば『解脱』である。その過程で稀に歓喜に満ちた自在の境地である『悟り』を開く人がいる。『解脱』も『悟り』も『仏智』を得て『仏』に成ることであり、これが釈迦哲学の目的であり『聖諦論』の目的である。

 ただ釈迦哲学は『悟り』に重きを置くのだが、それにしては『悟り』を開く人が少なすぎる。いわば稀有であり『奇跡』と言ってもよい。そんなものが『哲学』として成り立つかという疑問生じる。だから現段階で『哲学』として成り立つのは『解脱』で、『悟り』は今しばらく宗教の分野に留まるだろうと思っている。『悟り』が哲学になるかどうかは『聖体論』次第なのだろう。

 

〔 釈迦哲学を取り巻く世界 〕 歴史、日本との関係、一神教

 仏教は紀元前5世紀にインドの釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタが広めた教えで、日本には6世紀半ばに、漢字に訳された経典と共に中国より伝わった。これを北伝仏教、別名大乗仏教と呼んでいた。また南方のスリランカやタイ・ビルマ経由で伝わった仏教(南伝仏教)を小乗仏教と呼んでいたが、その呼称そのものに優劣があると批判が起き、今は大乗・小乗という呼び方は北伝・南伝という言葉に変わっている。現在の日本国内の伝統的な仏教宗派は北伝仏教である。一方の南伝仏教は、アジアの仏教国を植民地支配した欧州の宗主国に伝わり、日本に本格的に広まったのは、仏教が西欧の『スピリチュアル』活動に注目された後で、世界を反対に回って届いた1990年代である。

 

 日本は古代から多神教の『神道』を中心として国家が成り立っている。ところが仏教伝来後は『本地垂迹』説を唱え、「神道の神々は仏教の如来や菩薩が姿を変えたものである」として仏教・神道を共に敬う道を選んだ。朝廷でも天皇は神道の統領でありながら、上皇(譲位された元天皇)になられると仏門に入るといったことがごく普通に行われるほど神道・仏教どちらも大事にした結果、国民もみな仏教と神道を共に敬うという、世界に類のない国家を創りあげた。この日本人独特の宗教観は、狂信者のテロに怯える世界の注目を集めている。

 

 宗教の中で信者が多いのは、俗に『一神教』と呼ばれる宗教で、その中でもキリスト教・イスラム教・ユダヤ教はその成り立ち(主神:ヤハウェまたはアッラー)からほとんど兄弟と云って良い関係にある。その世界観は「この世界は神の創り賜うた世界」で、神の教えに背くことが罪で、罪を犯した人間は神による罰を受け、信仰厚いものは死後『神の国・楽園』で不死の生命を与えられる。その代償にこれらの『一神教』は神の教えに従って生きること、教えを広めることを義務付け、結果的に他の宗教の人間に対し極端に不寛容であった歴史を持つ。

 一方、多神教の世界はもっとおおらかである。古代のギリシャやローマ、そして北欧の神々は人間的である。つまり欠点だらけで、人間の女性を誘惑したり手を出したり、挙句の果てに騙されたりするのだから実に憎めない。野卑で人間臭い神々は、当然の如く愚かな人間の行為に対し寛容であった。

 ヒンドゥー教も多神教で他の宗教への干渉は少ないようだが、カーストという近代社会においてかなり理不尽と思える「身分や職業選択の排除規定」があり、インド周辺にとどまっている。

 日本の神道のような汎神教は、原始(原型?)的ともいえる宗教で、「万物に神が宿る」とするので敬神や畏れはあっても、排他的思想や差別的要素は少なく宗教的にはかなり寛容な部類に入る。

 

 本来の仏教には『神』はいない。もっとも尊い存在である仏陀(如来・阿羅漢)は悟りを開いた人への尊称であり、その教義は「全ての人間が仏性を有す」というもので、死後の世界や魂と云った宗教特有の諸問題について無関心に近い。釈迦には神は必要なかったのだろう。繰り返すが仏教の本質は釈迦哲学と呼ぶべきもので、『仏教』と呼ばれる宗教になったのは、2500年前の当時の世相は「救済の教えは全て宗教と見なされた」という単純な理由と推測する。仏教の神々は仏教が広まった地域の土着の神々が取り込まれて生まれたものだ。だから仏教と隣接する地のヒンドゥ―の神々は、初期から梵天や帝釈天等として仏教の神に納まっている。

 

 神はいなくとも、「人が死んだらどうなるのか?」「輪廻転生はあるのか?」という『死』にたいする疑問は必ず付きまとうはずである。ところが原始仏教には死後の世界や輪廻転生について独自の思想はないようだ。現在の仏教の死生観は、釈迦入滅後に伝わった国や地域の死生観によって、少しずつ形づくられたものだろう。

 西洋哲学でも様々な死生観が語られているが、中世以の哲学は「如何に生きるか」という学問として、『死』については「人間には解けない謎」という立場に徹しているようだ。
この点を見ても仏教の本質は哲学と見るのが正しく、仏教・釈迦哲学を信奉する者は『死生観』については一人一人好きなものを選択してよいのだと思う。

 


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