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NO.9 縁になれれば・・・

更新日: 2018年9月4日 14時57分

信じなくてもいい、笑い飛ばしてもいい。ただ記憶にだけ留めておいて欲しいことがある。
「『悟り』はあるのだ」と言い続けている人間がいたことを。

 

 釈迦哲学・聖体論の『悟り』を、戯言と聞き流してもいい。こればかりは本人次第で他人の言うことなど聞くまい。だが忘れられるのは悲しい。

 『悟り』は、心霊現象や超常能力などのよう神秘話とは無縁ものである。淡々と学び修行したその結果到達する、人間の能力の覚醒の話である。心を打つ歌手・超絶技巧のミュージシャン・真似のできぬ運動能力・美の極致を描く画家・魂を揺さぶる詩人、これらの人々と同じく、たゆまぬ実践によって最高の智慧『幸福にある』ことを可能にした人のことだ。そして『悟り』に至る技術を身に着けた『解脱』の人たる祝福を受けることなのだ。

 

 『悟り』を開く人には、確たる理由もなく突然悟る『頓悟』の人と、修行の積み重ねによる『漸悟(ぜんご)』の人があると言われてきたがそれは間違いである。悟りには『漸悟』しかない。『頓悟』と言われるものもその実態は『漸悟』である。精進しながら少しずつ『悟り』に近づく。ただ何の前触れもなくある日突然に『悟り』を開く。その『悟り』の瞬間の飛躍に驚嘆し、きっかけや理由が全く分からないので『頓悟』と思ってしまうが、それらは全て『漸悟』である。

 

 何事も、何かのきっかけつまり『縁』と関わりを持つ。『悟り』も同じで『縁』に触れそこから出発して学び実践して『解脱・悟り』という果を得る。スポーツでも芸術でも学問でもこのような流れは同じだろう。『悟り』も何も変わるところはない。これを『頓悟』と言うのは間違いである。
 重要なのは最初の『縁』である。『縁』がなければ何事も始まらない。笑い飛ばし拒否されてもいいが、忘れられてしまっては『縁』にもなれず悲しい。だから「悟りはあるのだ」と言い続けている。

 

 信じなくてもいい、笑い飛ばしてもいい。「悟りはあるのだ」と言い続けている変な人間がいたことを心にとどめておいて欲しい。 忘れ去られてしまうのは『縁』にもなれずあまりに悲しい。


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