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No.2 瞑想は「何かを求める」ものではない

更新日: 2018年6月18日 16時26分

≪ 瞑想は「何かを求める」ものではない。そんな瞑想はやってはならない。 ≫

 世は瞑想ブームなのだそうだ。瞑想は本来宗教的な動機に基づくものだから、非宗教的な日本でブームと聞くと首をかしげるが、昨今の健康志向の延長で興味を持つ人が多いのだろう。リアルかネット上かを問わず『幸福啓蒙書』と並んで『瞑想関連本』も溢れているが、いつの世も人を惑わす不届き者は絶えない。幸福を求めるあまり迷路に迷わぬよう気をつけたい。

 あのサリン事件のオウム真理教も、ヨガと瞑想で信者を集めたことを忘れてはならない。若い人は知らないかもしれないが、教祖・麻原彰晃の指示で、「意識を高い次元に移す」という意味である『ポア』という言葉を使い、教団に邪魔な人間を次々と殺害し、地下鉄車両内で猛毒サリンをまくという、前代未聞の無差別殺人事件を起こした教団である。その麻原が瞑想の達人と言われていた。何をかいわんやである。

 

 瞑想は誰でもできるし、日常的にみな無意識のうちに行っている。大自然の美しさに、言葉を失い感動に浸るのも冥想である。寝る前に今日一日のことを静かに振り返るのも瞑想である。

目を閉じて、心を落ち着けて、自分を見つめ「いやなことを忘れる」それも十分な瞑想であり、体の健康にも・心の健康にも有効なのは当然。「いやなことを忘れる」瞑想を実践するなら自宅で可能だろう。

 その瞑想がなぜこれほどもてはやされるのか? きっと押し寄せる情報の波に疲れ果て、耳元で心安らぐ『瞑想の素晴らしさ』を囁(ささや)かれると心惹かれるのだろう。だが、はっきり申し上げる。瞑想にも原則・ルールがあり、安易な期待は禁物である。

 

 日本で最もポピュラーな瞑想は座禅だろう。歴史もあり実績もある。だがその陰で、『禅病』と呼ばれる精神疾患で命を落とした修行者が数多くいる。座禅以外の瞑想でも同様だろう。昔のように「死に至るまで手の施しようがない」ということはないだろうが、『魔境』(鬱)と呼ぶ状態に入ることは各種冥想法でもごく普通に認識されていて、良心的なところであればその危険性を周知徹底するはずである。

なぜ禅病や魔境という状態に陥るのか? 一言で云えば『ありもしないもの』を求めるからである。オウム真理教では瞑想修行に薬物や電気ショックなどまで利用した。なぜか? それは『ありもしない幻想』を求めて、自分のものでない外的刺激に頼ったからだ。禅では「欲しい欲しい」という思いで座禅でに臨むことを『乞食(こじき)禅』と戒めている。ありもしないものが見えたり、誰にも聞こえない音が聞こえたりするのはすでに禅病の入り口で、それらは欲望が五蘊を刺激して生みだす幻想である。

 わたし達は本来持っている自分の能力以上のことはできない。わたし達が瞑想でできることは「自分が持っているもの」を使うしかない。どう使うか? 考えてみればわかる。せいぜい不要なものを手放す位のことだ。瞑想は「手放すことで、「何かを求める」ものではない。

わたし達は日常生活で常に苦を生みだしている。その苦によってわたし達は、健康を害したり精神を病んだりしている。本来の能力を発揮できないでいる。座禅・瞑想とは、本来の能力を発揮するために、自分の生みだしている苦を取り除き、新たな苦を生みださないようにする作業なのだ。
こう聞いてがっかりした人はそれもまた早とちり。座禅・瞑想がかつて経験したことのない幸福をもたらすのもまた間違いないのだ。

 

 もし瞑想を学ぼうとするなら、その指導者に、「なぜ瞑想するのか」「瞑想をするとどうなるのか」と必ず聞かなければならない。瞑想する理由として釈然としない小難しい理由を言ったり、瞑想により超自然的能力が身につくなどと云われたら、その場に集う人たちが楽しそうかどうか観察すればいい。

 納得できない場合は止めた方がいい。健康のためなら自宅で瞑想すれば十分だし、瞑想抜きのフィットネスやヨガ・ランニングなどでいい。『理』のない冥想はやらない方がいいのだ。さらに、物心つかぬ子供の瞑想など逆効果だろう。
 こんなことを言うのには理由がある。ここで述べたように瞑想にはどうしても『自分を捨てる』という部分があり、その状態では他人からの影響を受けやすい。俗にいうマインドコントロールなど、本来暴力や制裁を伴わなければ不可能だが、瞑想中は他人の言葉に操られやすい状態になる。その状態で繰り返し暗示を受けると、無意識の内にコントロールされる恐れがあるからだ。その点に十分な注意が必要だろう。
〔 瑞峰 〕

 


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