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つぶやき

皇室の繁栄を願う 存続を心より望む

更新日: 2018年9月2日 12時38分

 今上陛下が来年譲位されることになったが、皇位継承者が皇太子と秋篠宮親王とそのお子様である皇孫・悠仁親王わずかお三方とあっては皇室の存続は今や風前の灯火と申し上げてもおかしくない。(もうお一方常陸宮様がいらっしゃるが現実的には先のお三方だろう)

 この問題は、天皇家からご希望を述べられることはあり得ない話なので、日本国民が忖度すべきなのだが、杳(よう)としてその声を聞かない。

 日本の皇室を語るのに英国王室を引き合いにだすのは、彼らにとって気の引けることかもしれないが、かつての大英帝国植民地が未だに英連邦諸国として地球上にその姿を残しているのは、ひとえに君主と戴く『英国王室の存在』によるのだ。
大戦後、覇権国アメリカの人々に「何が欲しいか」と聞いたら、「王室」と答えた人が多かったというのは、あながちジョークと言い切れないものがある。

 

 米国の占領政策に踊らされ自虐史観に毒された日本のマスコミと左翼が、「天皇の戦争責任」などと言う戯言(ざれごと)をたれ流したおかげで戦後日本人は魂を抜かれてしまった。
 日本国の歴史も文明も、天皇家に象徴される国家神道抜きには成り立たない。天皇制は日本の国土そのものと言って良いのだ。国土を持たぬ国家など存在しえない。

 国政を預かる自民党は、この問題について国民の声を聞き早急に手を打つべきである。
日本人として誇りを持ち、共により良き国家を目指すには、天皇陛下のお力が欠かせないことを認識すべきであると思っている。


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NO.7 人間には隠された秘密がある

更新日: 2018年7月20日 14時07分

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No.6 本当の幸福とは何か?

更新日: 2018年7月15日 14時21分

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つぶやき

観音様

更新日: 2018年7月14日 10時35分

猛暑の中、近所の診療所へ。月に一度薬をもらうための病院通いで、履いていたサンダルを上がり框に向けてそのまま待合室へ。本当に3分(以内?)の診察後、待合室で薬を待つ。今時珍しく良心的な院内処方なのである。

熱い熱い日差しの中おばあちゃんが来院。ちょっと足元が覚束ないので、入り口近くに座っていた私は奥の席に移動。そこで見ているとスリッパに履き替える時、ごく自然に吾輩の小汚いサンダルの向きをソロリと変えられた。

そう、昔のご婦人(失礼)は誰もがみな、このような美しい所作で心を配ってくださっていた。
お顔を拝見すると神々しいほど美しい。
長椅子に座り「ここは涼しいですね。表は大変でした。」と微笑みながら声を掛けられたのだが、それがもう抱きしめたくなるほどかわいい。
観音様がいらっしゃればかくやと思わせる様に見惚れてしまった。

昨日までの大雨のことを話していると、薬が出来た呼び出しにご挨拶して別れたが、こちらの顔の笑顔がしばらくほどけない。
人の心は顔に出る、所作に出る。もうええ歳になった私はまだあのような振る舞いは出来ない。情けない。
悔しいが、生きざまが生みだしただろう見事な笑顔に、暑さを忘れたさわやかなひと時だった。


つぶやき

ヒマラヤの聖者

更新日: 2018年7月13日 15時58分

 ヒマラヤの聖者という方のご本を身内の者が買ってきて読んでいたので私も読ませてもらった。
すごい、このテクニックはすごすぎる。途中から到底私には理解できないとあきらめた。

 「何一つ肝心なことを書かず本を上梓する」というこの才能は並大抵の者ではない。どこにも『悟り』を開く具体的な方法は書かれていない。もし書かれているのなら、彼女の『悟り』は私などとは根本的に次元が違うものなのだろう。

 私に読み解けたのは、最終的に悟るには全てを悟ったマスターに出会わなければ無理であるということ。
そしてヒマラヤのマスターは下界に降りてこない。今マスターに出会えるのは日本だけであるということ。
つまりこの方がいま世界で出会える唯一のマスターということらしい。

 その他は美しい押し花を散りばめたように言葉は溢れているが、ただこれでは相田みつおさんや坂村真民さんのように「言葉にできぬものは詩にするしかない」と腹をくくった人達の言葉にも到底及ばぬ。だって何も書いていないのだもの。

 

 いやいや判らぬ。インドでは、「地下に潜る修行に何日間も耐えることが出来る聖者」として、国民的(?)評価を受けているすごいお方らしい。日本のテレビにも出演されたのでお顔を拝見する機会があったが、実に「かわいらしいおばさん」といった風情で親しみやすそうなご様子である。こんな方が嘘をつくとは思えない。
 つまりこの本に何も書いていないのは、意図的に「肝心な秘伝はマスターである私のもとに来て修行しなければならない」ということを伝える宣伝本ということなのだろう。これは時折見かける宣伝文を本にして販売するハラタチ本。とするとかなりの商売上手!

できればご自信の言葉で『悟り』の一端でもご披露いただければありがたいが、おそらくその日の来ることはないだろうという気がしています。


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No.5 過去は変えられる!

更新日: 2018年7月12日 13時06分

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NO.4 被害者意識は苦のループの起点

更新日: 2018年7月12日 12時33分

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聖諦論(解脱の理)

Ⅰ 聖諦論の概略

更新日: 2018年7月12日 12時00分

〔 聖諦論概略 〕
聖諦論とは一言で言えば『苦滅の理』である。

1)わたし達には自分を守るシステム(『エゴS』)がある。『苦』はエゴSの生み出す情動であり、
  危機回避を促す警報である。つまり『苦』は自分が生みだす。何一つ人の責めに帰すものはない。
2)自分で生み出す『苦』だからこそ自分で消すことができる。『苦』を消すことで本当の自分が
  見えてくる。それが『解脱』であり、『解脱』のみが人類に、真の幸福と平和をもたらす。
3)『解脱』の過程で縁起により、極々まれに起きる現象が『悟り』である。

これが聖諦論の概略で、巷間の仏教と相違を感じるかもしれないが、聖諦論こそが本来の釈迦哲学である。

釈迦は徹底的に『人間』を語っている。人間抜きの思想は何一つ語っていない。その釈迦哲学が現代まで語り継がれてきた理由は、釈迦の体験した『悟り』にある。『悟り』が魅惑的なのは究極の幸福だからだ。

 古来、多くの人が『悟り』を夢見てきたが、果たしてどれほどの人が夢をかなえたのだろう?
情報が瞬時に世界を駆け巡るネット社会に、「我悟れり!」という歓喜の雄叫びが世界中から巻き起こりそうなものだが・・・その気配はない。

 『悟り』の説明は難しい、それ以上に体現は難しい。『悟り』には現世の枠を超えた宿命の影響を強く感じる。一方『解脱』は正しい人間理解と瞑想の実践により誰でも実現が可能になる。
しかしその『解脱』さえも、その実現は本人以外には判らないのだから難しい。

 とはいえ『悟り』は奇跡のような歓喜であり、それを発見した釈迦哲学はそれ故に尊い。多くの人が『悟り』を目指すことは、人類にとって大きな意味があると確信している。
 だが、その素晴らしい『悟り』にも知られていない秘密がある。それは『悟り』もまた諸行無常を免れないというものだ。
では我らは何を目指せばいいのだろう?それがここに示す『聖諦論の解脱』である。
『悟り』と聖諦論の『解脱』が人類の進化を意味し、唯一『万人の幸福』を実現する道だとわたしは信じている。

ここで私の知る情報の全て伝えたい。特に若い人達に伝えたい。
少しずつ投稿してゆくつもりだが、同時に修正も入る点はご了承を願う。

 


聖諦論(解脱の理)

Ⅰ 解脱への『ロードマップ』

更新日: 2018年7月11日 12時00分

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聖諦論(解脱の理)

Ⅱ 釈迦哲学1(概略)

更新日: 2018年7月11日 11時55分

 本編は『釈迦哲学の概略』としているが、釈迦哲学の聖諦論的解釈というものである。

〔 仏教は哲学である 〕

 聖諦論の基礎は仏教である。仏教抜きには語れない。その仏教は一般的には宗教と思われている。宗教とは何か?わたしの宗教観は、「宗教とは人間以外の対象に絶対的価値を認めそれによる救いを願う行為」である。その対象には神・思想・自然現象・山や巨木・巨岩・大いなる存在(?)など人間は様々なものに絶対的価値を観る。

 仏教ではどうか。仏教で崇められ・絶対視されるのは『仏』・正覚の人間である。崇め・絶対視するのは目覚めていない人間である。崇めるものと崇められるものがどちらも同じものを宗教とは呼べない、哲学・道徳・倫理である。仏教は宗教ではなく釈迦哲学である。

 共産主義なども『思想』を絶対視する一種の宗教だと思う。だから仏教の中にも宗教と呼ぶべき宗派は存在する。「ただひたすら念仏を唱えれば極楽浄土にいける」とする浄土宗などは『宗教』だろう。しかし釈迦本来の教えは哲学であると信じている。
 また理解できないものを『信じる』こと自体を宗教と考える人がいるので、釈迦哲学の『悟り』を超自然現象として絶対視する人には仏教は宗教になる。ただしその場合、『悟った人』をどう扱うかという問題が生じる。生身の人間を絶対者として崇め奉ることになり、必然的に『神殺し』の可能性をその宗教は抱えることになる。それは宗教として成立しないだろうと思う。

 仏教は哲学である。釈迦は人間の正気・『悟り』に覚醒した無上の人・仏という奇跡のような存在であるが奇跡ではない。わたし達は菩提心を持って正覚・悟りを目指す。ここに『人間本然の覚醒』以外、超常・超自然への憧れは微塵もない。釈迦の教えは宗教ではなく哲学である、その立場で解脱・悟りを目指すのが聖諦論である。

 

〔 釈迦哲学の目的 〕 苦滅・解脱・成仏(幸福の代名詞である)

 釈迦哲学の目的は何か?いたって簡単である。宗教であれ哲学であれ人間の営みはみな同じで「幸福になる」ことである。そして釈迦哲学は幸福になるためにどうすればいいか教えてくれる。それが『苦』から逃れることである。釈迦は「人生は苦である」と喝破し、『苦』から逃れるすべを教えている。

 釈迦は「わたし達は苦の輪廻に捕らわれている」という。この輪廻には、生死を超えた『転生の輪廻(輪廻転生)』と一つの生涯における『六道輪廻』がある。現実的にわたし達が取り組めるのは『六道輪廻』である。
 わたし達は『六道輪廻』の苦に生きる。それに気づく事が『菩提心』であり仏に成るための修行の出発点である。仏になる修行が『苦滅』であり、『苦』を滅すれば『解脱』である。その過程で稀に歓喜に満ちた自在の境地である『悟り』を開く人がいる。『解脱』も『悟り』も『仏智』を得て『仏』に成ることであり、これが釈迦哲学の目的であり『聖諦論』の目的である。

 ただ釈迦哲学は『悟り』に重きを置くのだが、それにしては『悟り』を開く人が少なすぎる。いわば稀有であり『奇跡』と言ってもよい。そんなものが『哲学』として成り立つかという疑問生じる。だから現段階で『哲学』として成り立つのは『解脱』で、『悟り』は今しばらく宗教の分野に留まるだろうと思っている。『悟り』が哲学になるかどうかは『聖体論』次第なのだろう。

 

〔 釈迦哲学を取り巻く世界 〕 歴史、日本との関係、一神教

 仏教は紀元前5世紀にインドの釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタが広めた教えで、日本には6世紀半ばに、漢字に訳された経典と共に中国より伝わった。これを北伝仏教、別名大乗仏教と呼んでいた。また南方のスリランカやタイ・ビルマ経由で伝わった仏教(南伝仏教)を小乗仏教と呼んでいたが、その呼称そのものに優劣があると批判が起き、今は大乗・小乗という呼び方は北伝・南伝という言葉に変わっている。現在の日本国内の伝統的な仏教宗派は北伝仏教である。一方の南伝仏教は、アジアの仏教国を植民地支配した欧州の宗主国に伝わり、日本に本格的に広まったのは、仏教が西欧の『スピリチュアル』活動に注目された後で、世界を反対に回って届いた1990年代である。

 

 日本は古代から多神教の『神道』を中心として国家が成り立っている。ところが仏教伝来後は『本地垂迹』説を唱え、「神道の神々は仏教の如来や菩薩が姿を変えたものである」として仏教・神道を共に敬う道を選んだ。朝廷でも天皇は神道の統領でありながら、上皇(譲位された元天皇)になられると仏門に入るといったことがごく普通に行われるほど神道・仏教どちらも大事にした結果、国民もみな仏教と神道を共に敬うという、世界に類のない国家を創りあげた。この日本人独特の宗教観は、狂信者のテロに怯える世界の注目を集めている。

 

 宗教の中で信者が多いのは、俗に『一神教』と呼ばれる宗教で、その中でもキリスト教・イスラム教・ユダヤ教はその成り立ち(主神:ヤハウェまたはアッラー)からほとんど兄弟と云って良い関係にある。その世界観は「この世界は神の創り賜うた世界」で、神の教えに背くことが罪で、罪を犯した人間は神による罰を受け、信仰厚いものは死後『神の国・楽園』で不死の生命を与えられる。その代償にこれらの『一神教』は神の教えに従って生きること、教えを広めることを義務付け、結果的に他の宗教の人間に対し極端に不寛容であった歴史を持つ。

 一方、多神教の世界はもっとおおらかである。古代のギリシャやローマ、そして北欧の神々は人間的である。つまり欠点だらけで、人間の女性を誘惑したり手を出したり、挙句の果てに騙されたりするのだから実に憎めない。野卑で人間臭い神々は、当然の如く愚かな人間の行為に対し寛容であった。

 ヒンドゥー教も多神教で他の宗教への干渉は少ないようだが、カーストという近代社会においてかなり理不尽と思える「身分や職業選択の排除規定」があり、インド周辺にとどまっている。

 日本の神道のような汎神教は、原始(原型?)的ともいえる宗教で、「万物に神が宿る」とするので敬神や畏れはあっても、排他的思想や差別的要素は少なく宗教的にはかなり寛容な部類に入る。

 

 本来の仏教には『神』はいない。もっとも尊い存在である仏陀(如来・阿羅漢)は悟りを開いた人への尊称であり、その教義は「全ての人間が仏性を有す」というもので、死後の世界や魂と云った宗教特有の諸問題について無関心に近い。釈迦には神は必要なかったのだろう。繰り返すが仏教の本質は釈迦哲学と呼ぶべきもので、『仏教』と呼ばれる宗教になったのは、2500年前の当時の世相は「救済の教えは全て宗教と見なされた」という単純な理由と推測する。仏教の神々は仏教が広まった地域の土着の神々が取り込まれて生まれたものだ。だから仏教と隣接する地のヒンドゥ―の神々は、初期から梵天や帝釈天等として仏教の神に納まっている。

 

 神はいなくとも、「人が死んだらどうなるのか?」「輪廻転生はあるのか?」という『死』にたいする疑問は必ず付きまとうはずである。ところが原始仏教には死後の世界や輪廻転生について独自の思想はないようだ。現在の仏教の死生観は、釈迦入滅後に伝わった国や地域の死生観によって、少しずつ形づくられたものだろう。

 西洋哲学でも様々な死生観が語られているが、中世以の哲学は「如何に生きるか」という学問として、『死』については「人間には解けない謎」という立場に徹しているようだ。
この点を見ても仏教の本質は哲学と見るのが正しく、仏教・釈迦哲学を信奉する者は『死生観』については一人一人好きなものを選択してよいのだと思う。